昭和50年03月07日 朝の御理解



 御理解 天地書附
 「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり 今月今日でたのめい。」

 昨日はこの一時から、高芝さんの所の娘婿に当たります熊井さん、株式会社「稲心」という看板の元に商売をしておられます、丁度一年前にその社長の、稲盛さんという亡くなられました、こちらに全然身寄りがおられませんので、大体鹿児島かどっかの方だったでしょうけれども、まあ久留米に出て来て商売をされ、その方の所で、今の熊井さんが働いておられた。
 所謂亡くなられた後も、大変ややこしい問題がいくらもありましたけれども、まあ一つ一つ解決のおかげを頂いて、その店をそれこそ神様のおかげで、後を受け継がれる事になりまして、段々問題も解決のおかげを頂き、段々軌道に乗って来て、あの繁盛の一途を辿っておる状態にあるお店なんです。中々珍しい方でね、この熊井さんというのがぁ親も大事に、ね、されます、まあ高芝さん達夫婦もまあそちらへおられる訳ですけれども、それで丁度一年まあ言わば式年ですから。
 その式年の霊祭を仕えて欲しいという、前々からのお願いがあっておりました、それで丁度昨日それをおかげ頂いた訳ですけれども。当時のお店におられた従業員の人、それから稲盛さんが親身にお付き合いをしておられた、久留米市内に住んでおられる、言うなら当時の稲盛さんのお友達なんかも呼ばれて、十何名ですかの方達が参拝されまして、そしてその本当に何と言うかぁ本当に親身でも。
 出来ないと言う様に思いを込めた霊祭でした。霊祭を仕え終わってから熊井さん、あの熊井さんお礼に出て見えて、もう本当に今日の霊祭を仕えて頂いたと言う事が、もう心から有り難いという御様子でした。私はそん時に思わせて頂いたんですけれども、こういう心があの和賀心というのなんだと言う事です。是は例えば蜜柑なら蜜柑でもう小さいのから段々大きいのがありますよね、金柑やら蜜柑それからまあメーブル、ね、こんっミコシと言う様に、まあザボンと言う様に段々種類が色々あります。
 今あの御神さんの方にお供えしてある果物の向こうに、こんな大きなあのあれは何って言うでしょうかね、ザボンではないらしいですけども、大きなやっぱり蜜柑の一種でしょうが。何でも同じで大きくなりますとね、大味になるんです、ね、例えて言うとそれこそ「自分の事と下り坂は急がんものはない」と言われる様に、それが自分の事自分の一番身近な事、ね、言うならば親の事子の事、兄弟の事と言う事になると、それが非常に親身に思われます、ね、
 それが段々まあ隣近所、ね、まっ皆さんも毎朝御祈念の時に唱えられる様に、世界真の平和を願え、世界総氏子の身の上安全を願うておられますけれども、それはもう大変な大味なものではないかと思うです、ね、実感として本当に自分の今日の問題に取り組んで、その事をどうでもおかげを受けなければならんという事とは、大変違うでしょう、様に大きくなってくればなって来る程、遠くなれば遠くなる程そういう大味になるのは、まあ当然の事ですけれども、信心とはその段々、ね。
 大きくなって行くに従ってその内容がです、それこそ先日から頂きます様にね、自分の隣人を自分の事と思うてと言う様な、心の状態が出けて来る事が、私は信心が成長して行くと言う事だと思うんです。信心が解ったとか、信心が育てられたとか大きくなったとかと言う事は、自分の事として、例えばなら教会の事が願われる、ね、もう本当に親身に教団の事が願われる、日本国中の事が願われる、世界中の事が願われる、唯唱え言葉だけであるならばです、それは所謂願っておるのですから。
 願っておらんよりも良いでしょうけれども、それは大変大味なものになって来るんです。ね。まあ熊井さんの場合なんかでも、言わば赤の他人である、こりゃ縁と言う物は不思議な事、ね、言うならば何処のもっ本当に何処の物骨やら解らん様な人との出会い、そしてそこから商売を手伝ってくれないか、なら一つ手伝おうかと言った様な事から、商売が始められ例えて言うとね。
 そしてまぁ稲盛商店というその商店が出来上がって、まあ随分繁盛しておった様でしたけれども、実際終始決算をすると随分やっぱり赤字が残ると言った様なお店だった。けれどもその店の看板と言うか、非常に製造物とか、元とか下ろし元の方へ、信用が、その在った訳ですし、同時に一緒にしておる熊井さんに特に信用があったです、だからあんたが後をやるならば、ね、一つ力も貸してやろう、力も入れさして貰おうと言った様なそのう働きがあったから、まあ言わば出けた訳です、ね。
 だからその一番の創始者である所の、なら稲盛さんの亡くなられて、丁度不思議な縁でですね、此処に十日位修行したんです、もうとうっ糖尿病の愈々酷い、それで私が一緒に食事をさして貰うて、毎朝私が食べる物を食べなさい、糖尿病じゃからと言うてね怖がる事はいらん、私が甘い物食べるならあんたも甘いもん、辛いもんの時にはあんたもお神酒、私と一緒にあの飲みなさいと言った様な事で大変おかげを頂きましてね、
 それから一時修行を止めて、又出て来ると言うてそのまま出て来られずに、健康に大体なられたんです、お店の事出来られるくらいに、そして店の方達を全部引き連れてハワイ旅行をなされました、それが非常に堪えたらしい、それから帰られて休み疲れて亡くなられた、だから此処にそういう、その縁のある方なんです。ね。それでそのうその人の、例えばならおかげで当時までは稲盛商店でしたけれども、あの会社組織にして所謂株式会社稲心としての、発足をまたされ出してまあ今日にある訳です。
 だから1番始めにこの店の元をとって下さった人としての霊様ですから、ね、まあ言わばお店の恩人でもあると言う様な、まあ思いでそういうまあ、心掛けの人です熊谷さんて方は、それでその霊様も此処にお預っ御遺骨もここに預かっておるんです、ですから是非あの親先生に1年の式年を仕えて貰いたいとこう云う訳です。しかもその当時のその方のお付き合いしておったお友達までも皆呼んで。
 まあ盛大にお祭が出けたんです。でその事がです、まあ随分お金も掛かった事でしょうけれども、暇も時っもうそれこそお金も費やしてからの事ですけれども、その事が大変有り難かった、是が五年祭そして十年祭になる頃にはです、もっと立派な式年祭が出来る様にならにゃという、願いを持っておられる。心掛けがね中々良いです。うん言うなら赤の他人なんです、それでも段々そういう風にそのなって見えられて、そこで私は思うんですけれどもね和賀っ、どうぞ今月今日で一心に頼む事は。
 どうぞ今日も和らぎ賀ぶ心にならして下さいと言う事を願う事なんですけれど、唯それを願うただけでは、和賀心は頂かれんと言う事、どうぞどうぞ今日も私の心の中に和らぎ賀ぶ心を与えて下さいと言うても、それではおかげにはならんと言う事。願うからにはです、和賀心にならせて頂く所の工夫をしなければならないと言う事、その工夫とてもです、唯自分だけの我情我欲の為の信心ではなくて少しはましな、ね。
 言うならば、ね、神様がお喜び頂けれる、に間違い無い願いに立っての信心、ね「どうぞ今日も本気で成り行きを大事にさせて下さい」「どうぞ今日も、本気で合楽示現活動に参画させて下さい」ね。と例えば言う様にです、自分の事と同じ実感を持ってです、そういう神様が喜んで下さる様な願いが、それが末は天下国家の事までも親身に祈らずにはおられない、と言う様な祈りが出けてそこに行が出けて、初めて与えられるのが和賀心だなと言う風に思うです。矢張り与えられるものです。
 だから願わなければなりません。「どうぞ今日も一日、和らぎ賀ぶ心でおれますように」と言うて願わなならんけれども、その願うただけで和らぎ賀ぶ心って言う物は与えられるものではない、神様に喜んで頂けれる言うならば、還元の生活が出けるとか、ね、天地に対する所の神恩報謝の生活が、本当に出けた所からです、他人の事でも自分の事のように親身に思えれる様な、例えば有り方にならせて頂いた時に、与えられるのが、私は和賀心だと思います。ね。
 私は昨日熊井さんの所のその霊祭を通してです、ははぁ和賀心というのはです、中々まあ口では言います、ね、唯お願いもしより祈りもしよる、けれども実際になら暇も、例えばそっ時掛けんならんお金も掛けにゃならん、それも別に義理とか人情とかと言う様な事を言わなくってもです、誰もそれをとやこう言う者も居らない、ね。お祭をしたからというて、言うなら霊様が喜ばれるだけであって、誰が喜ぶと言う事もないのです、近所に親戚という人がおらっ、おられる訳でもないのですから、ね。
 放任しとっても良い様なもんです、けれども矢張りそれを親身です、唯昨日お祭の後に頂いたお話しの中にもありました様に、矢張りこうやってぇんなに、親身にお付き合いをしておってもです、ね、場合には相手を色眼鏡で見る事もある、ね、疑うちゃならん事に疑う様な事もある。けれども心の世界魂の世界、ね、言うならばぁ熊井さんの心と、言うならば亡くなられた霊様の所謂、その魂とがこう出会う時にです、それは本当のもの実相の姿、所謂実相の姿と言うか実相です、ね。
 それを教祖は「信心する者は肉眼をおいて心眼を開け」とこう仰った、本当な事が解る。そしてそこで「本当に生前はああいう事で誤解を招いた事があったが、私のあれは思い過ごしであった思い違いであった、またあそこんところではあんなにしてもらってお礼を言わねばならない事が、お礼も言わずなりに」と言う様な事がこう交流する、ね、そこに私は心と魂の交流と言うか、喜びがあるあってそして本当にあの、そういう慰霊のお祭をさせて頂いた事が、ね。
 そう言う物が交流して、お互いが本当に真が解り合って、その喜びになったもんだとこう思うのです、ね。してその喜びこそが私は和賀心だと、和賀心は自分でなろうとしてなれるものではなくて、与えられるもの、ね、与えて頂くためには、だから与えて頂く方に、の心に適う生き方を進めて行かなければならん、神様の御心に適う、生き方を身に付けて行かなければならん、しかもただ小さい自分、自分一家と言う様な事からです、ね、赤の他人の誰彼の事までも、それが親身に祈れれる。
 お金を掛けてでも時間を掛けてでも、それが成せれれる様な心の状態、それを神様が喜んで下さらないはずがない。その神様の喜びが言うなら熊井さんの心に返って来て「今日は良い事させて頂いて有り難かった」金が掛かったとか時間が掛かったとか問題じゃない、この次の五年祭の式年にはもっと増しなお祭でもさせて頂かなければおれない様なものが是から育って来る、それが私は信心が育って行く事だと思うです。ね。
 自分の事は親身に願うけれども、段々遠くなるそれが段々大きくなって来るとです、それこそね蜜柑の例えではないですけれども、ね、中々味のある小味のあるものが、段々大味大きくなるに従って大味になって来る、その大味になって来たんでは詰りません、ね、と言うてうんなら、祈らん願わんと言う事でもいけません、やっぱり願って行く内にです、信心の稽古が出けて行く内にです、惟はまあ私の事ですけれども、ね、私はどちらかと言うと実感派ですから、ね、実感も無いのに、ね。
 例えば日本国中の事を願ったり、天皇陛下の事を願ったり、ね、皇室の家栄を祈るとか、といったような、良い事を言うけれども、実感もない者が願うたって何になるか言うならば、天長節に国旗を立てる事さえ忘れる位な事で、天皇陛下の事を願ったっちゃ詰らん。是が私の生き方でしたけれどもです、それが段々稽古をして行きよる内にです、ね、日本中の事ではない、それこそ世界中の事がです、しかも隅々の事がです、願わずにはおられないものになって来た、ね。
最近では世界中の事ではない、それこそ世界総氏子の精霊、もう亡くなってこの世におらない魂、霊達の事までも願わずにはおられない様に段々なって来ておると言う事は、私の信心がそれだけで、成長して行きよると言う事になるのです。だから自分の信心がどの程度に成長しておるか、自分の祈りの内容を見たら、思うたら分かるです、ね、だからせめて自分一家の事だけではなくて、ね、自分の村内だけの事ではなくてです、ね、その祈りが段々実感としてです、大味にならずに、自分の事としての、ね。
 味合いのある大きな祈りが持てれれる様になる、神様が是を喜んで下さらない筈がない。その神様の喜びが返って来る、それが私は和賀心だと思う、だから今月今日で頼めと仰せられてあるのですから「今月今日どうぞ今日もです、おかげを下さいおかげを下さい」と言うよりもです、私の心の中にそのおかげの受け物、おかげは和賀心にありと仰る、そのおかげの受け物、和賀心をです。
 「頂かせて下さい」と言うて、願うが早道である。と言うてうんなら「どうぞ和賀心を和賀心を」と願っただけではいけない、ね、願うからにはです、和賀心の頂けれる工夫をしなければならんそれをです、ね、神様がお喜び頂けれるような、願いを本気でさせてもらえれる、ね、その為にうんならお金を掛けても、時間を掛けてもその為に一修行させて頂いても。その事が願わずにはおられないと言う様にです、ね。
 信心が成長して参ります所から、神様の喜びを受ける事が出来る、神様の喜びが又こちらへ照り返る様に、頂けれる。良い事をしなければいけない、ならこんなに有り難い心になれるならと、その良い事がです、ね、させて頂く事が楽しゅうなって来る、そういう信心を目指して行く所から、ね、和賀心の世界というのが、本当なものに段々それが広う大きゅうなって来る、そこに頂けれるのがおかげである。
 「おかげは和賀心にあり」ね、和賀心にある、ので御座いますから、その和賀心にならせて頂くことを願え、ね、願うからにはならそれに言うならば金を惜しんだり、時間を惜しんだりしてはなりません、ただ願うとるだけでは、本当の願いにゃなりません、ね、折角信心の稽古をさして頂くのですから、この和らぎ賀ぶ心が愈々本当なものになって行く事の、喜びと言うか楽しみが分かる様な信心を進めて行きたいですね。
   どうぞ。